Blog記事一覧 > 世界最先端の予防医学 > なぜ、世界最先端の予防医学なのか?
42歳である日突然倒れた私は、元患者です。
私の失敗談は、きっと皆さまのお役に立てると痛感し、
恥ずかしながらも、皆様へお伝えしていく決意に至りました。
第1章 予防医学を目指す理由
~予防医学に目覚めたキッカケ~
私が予防医学を志した理由は、
父親の病が発端です。
私の父は、私が3歳の頃、病に倒れました。
それから父の人生の大半は入院生活でした。
腎臓移植失敗に人工透析、十数回に及ぶ手術。
新薬の治験・・
当時父が主治医に宛てた手紙を父の死後に読んだことがあります。
「30歳代にして、横断歩道の信号が青から赤に変わるまでに渡り切れない。
一人息子に対しても、自分の体が辛すぎて話すらしてやれない。キャッチボールも出来ない。」
そんな辛い想いがギッシリと記載されていました。
子供時代の私の思い出は、
父と過ごした記憶は病室がほとんどです。
そして、友達になる人は、同部屋の入院患者さんたち。
皆さん、病に苦しんでおられましたが、
子供の私に気遣ってくれたりしていました。
勿論、お亡くなりになられる方も多々居られ、
子供なりに「死」を身近に感じました。
「病気に負けるのは、その人が弱いからや!」
そんな反発心も芽生え、
自分は強い男になりたいと思うようになりました。
第2章 検査ミスと医療不信
父は、闘病生活10年の後
42歳でこの世を去りました。
その長い闘病生活は、運命だったのでしょうか?
「命」は運命としか言いようがないのですが、
病気になった頃の父は、
もしかしたら違う運命を選択出来ていた可能性もあったのです。
医師も認めた「検査ミス」が
父の10年の闘病生活の幕開けだったそうです。
しかし、我々はその検査ミスを責めたことは無いです。
「検査ミス」は仕方なかったと思っております。
母は、昨日の事のように話します。
しかし、我々にしては悪い思い出となっている事は
主治医の先生が、
「中村さん、訴えても、あなた方は負けます。
だから、これを治療費に充ててください。」
と、昭和50年頃のお金で100万円手渡されたそうです。
今の時代なら、裁判で太刀打ちできたかもしれませんね。
ドラマ「白い巨塔」を見た時に、
同じ光景を思い浮かべました・・
そしてその後、東京の病院で腎臓移植を勧められることになりました。
移植には、莫大なお金が掛かるそうでした。
病気生活が始まり、仕事へ行ける日も少なくなった頃の父に
腎臓移植する莫大な費用は私の家に無かったそうでした。
移植の費用集めもそうですが、
適合する腎臓探しも始まります。
御親戚や知人に、このような問題が発生すると、
いろんな問題が出てきます。
うちの場合は、
適合する腎臓探しで親戚中で揉めることになりました。
毎週のように繰り返される親戚会議。
エゴとエゴを目の当たりにし、
大人の自分勝手を観察していました。
例え兄弟姉妹であっても、
ご主人が居られます。
そのご主人のお気持ちも理解できますが、
私の父の妹のご主人は
「お前がお義兄さんへ腎臓を提供するなら、
離婚する。」
と言われたそうでした。
父として、それは避けなければならず・・
親戚会議も答えが見つからなくなると、
私の母に対して
「お前が息子を病気にした!」
とまで言われるようになったそうでした。
病気は、人の身体を痛めつけ、
精神をも蝕み、周りの関係者の人間性すら崩壊させていきます。
子供の僕は、そんな親戚の顔色、人の目ではない狂気の目、
発せられる罵声をはっきり記憶しています。
父は、検査ミスがなければ、腎臓移植までしなくて済んだのかもしれません。
42歳という若さで死ななくて済んだのかもしれません。
それは、100万円で済まされないかもしれません。
あの100万円は何を意味したのでしょうか?
検査ミスの為のお詫びの100万円ではなく、
その医師は私たち家族を救うための、
良心の100万円だったのかもしれません。
しかし、その担当医が言った
「中村さん、訴えても勝てませんよ」の言葉は、
子供の頃聞いた僕の耳にも残っています。
その言葉を思い出すと、
あの100万円の意味は・・
そこから、医療に対する不信感は絶大になりました。
母の口癖は
「医者には行かん」でした。
第3章 今を見つめる
42歳の父と過ごした最後の日は、
年末のせわしい日でした。
たまたま、母が
「年末だから家の大掃除をしたいので、今日1日病院でお父さんの横にいてな。」
と言ってきました。
遊び盛りの子供時代でしたが、
不思議と「OK」しました。
父はずっと入院していましたので、
2人で病室で過ごすことも慣れっこでした。
しかも、その日の父はとても優しく、
初めて男同士で過ごせた気分でした。
お昼前にベットから起き上がった父は、
引き出しから1000円札を2枚取り出し、
「お昼ご飯を買ってき。」
と、手渡してくれました。
病院の前のうどん屋さんで
持ち帰りにしてもらい、
病室のベットの横で父と親子どんぶりを食べました。
不思議な感覚で、
穏やかなお昼ご飯でした。
それから夕方まで簡単な会話をし、
父と別れる際には少し寂しい気がしましたが、
またいつでも病院へ来れば会えるので、
電車に乗って帰宅しました。
それから年が明け、父のいない正月。
ここでも、不思議な感覚がありました。
「父は帰ってこないかもしれない。」と、ふと思いました。
それから数日後、朝の6時に電話が鳴りました。
母からですが、「すぐに病院へ来なさい」と。
家から病院まで電車で1時間。
何事か分からずに病室へ入ると、
あの最後に会話した父はいませんでした。
ほぼ意識がなく、病室に横たわって起き上がりませんでした。
その数時間後、父は亡くなりました。
人の死を間近で見つめました。
それから、「強くならねばならない!」と、
スポーツはラグビーをしました。
国体強化選手にも選抜され、兵庫県選抜選手としての名誉ももらいました。
仕事は整骨院を経営し、
体も心も充実していたある日・・
私は、奇しくも父と同じ歳の
42歳で突然死を迎えようとしてしまいました。
私が助かったのは、
本当に奇跡だったそうです。
一瞬、父の呪い?とも思われそうな、
嘘みたいなホントの話し。
私は、実体験を通して、
病気になってからでは遅い!!と、啓蒙していきます。
そんな経験を余す事無くお伝えして行きます!
以下に当てはまる方は必ず読んで下さい。
当てはまらない方でも、読んで損は無い内容です。
将来に備えられる気付きになって頂きたいのです。
そう、僕の様にならない為に。
⬛︎ 今、病気で悩んでる方
⬛︎今、もがき、苦しんでる方
⬛︎今の医学では納得させてくれる説明が無い
⬛︎もっと仕事や身体のパフォーマンスを上げたい
⬛︎生産性(収入)を上げたい
⬛︎予防医学に興味がある
そんな方々のお役に立てます。